麻雀の倫理

麻雀のグレーゾーンを考察

小手返しと手出しツモ切りアピール②

前回、手出しとツモ切りのモーションをテーマに小手返しについて考えてみました。

僕の導き出した結論としては、小手返しは切り番にツモった牌を手の中に入れることになっていたり、手出しツモ切りの判別はできるべきであるということであったり、小手返しはゲームの進行とは無関係な動作であったりということから、小手返しはするべきでないと考えました。では、手出しツモ切りを誤魔化すことが悪だとして、

『手出しツモ切りを強調すること』はどうなのでしょうか?

それが今回のテーマです。

 

今自分が捨てた牌が、手出しであったこと・ツモ切りであったことを知らせたい局面はあると思います。その情報が伝わることで、ゲーム上自分の都合良い結果に繋がりやすい時がそうですね。

例えば、アガり牌を見逃して直撃したい相手に山越しをかける時はツモ切りであったことを…

テンパイからリーチの現物を空切りして降りたように見せかけたい時は手出しであったことを…

それぞれ伝えたいはずです。

ただもちろん、三味線になるような伝え方をするわけにはいきません。

また、三味線にはならなくても、「今ツモ切りました」「今手出しでした」とかいきなり自分からわざわざ言うのも、同卓者に余計な詮索をさせることになり、結果はどうあれ感じは悪いでしょう。

では、ここからが今回の考え所なのですが、

嘘や口は使わず、モーションだけで手出しツモ切りを強調した場合はどうでしょう。

ツモった牌を手牌の傍まで持ってこず、河の空中からそのままツモ切りしてみるといったことです。

手出しを強調するわかりやすい切り方がちょっと思い付きませんでしたが、人によって普段のモーションがそれぞれ違うので、そのモーションのパターンから手出しをさりげなく伝わりやすくする切り方がある人は多いのではないでしょうか。

共感できない方、すいません。

ここではモーションを変えることで手出しを表現しようとするとします。

これらのことからどんな問題が発生しうるでしょうか。

 

①三味線(まぎらわしい言動)となるか

以前、『嘘理牌』の記事で「嘘を使って欺く意図のある行為はよくない」という旨の話をしました。

そこに照らし合わせて考えると、嘘はついていませんし、欺くというよりはゲーム上のミスリードを誘うテクニックというニュアンスの方が近いのではないでしょうか。

 

②同卓者の心象

三味線じゃなければ何をしてもいいわけではありません。

結局は同卓者がどう捉えたかが問題です。

ではそのアクションの結果、ミスリードをした同卓者がその人に放銃したとします。

この時、「うわ、山越しか」や「空切りしただけか」となるなら通常のゲーム進行であり、手出しツモ切りを強調したアクションは、切り方のレパートリーとしてしか同卓者には感じられておらず、問題にはなっていません。

そうではなく、「うわ、手出しツモ切りを強調するためにわざわざあんな不自然な切り方をしたのか!」となってしまうようなら問題です。

騙された感を与えてしまっては、同卓者の心象を損ない、してはならないこととなるでしょう。

 

この案件から起こりうる問題や論点があまり思いつきませんでした。

とりあえずまとめますと、

自分の普段のモーションの中から、アクションの種類を認知されやすいモーションを選択しているだけなら、手出しツモ切りを強調することは特に問題ないと考えました。

何かこういうケースもあるというのがありましたら教えてください。

 

小手返しと手出しツモ切りアピール①

小手返し、皆さんは普段するでしょうか?
する・しない、上手・練習もしたことない、など小手返しの実践経験についてはいろんなパターンがあるかと思います。
僕はするかしないかで言えばする方です。
頻繁にするわけではないですが、理牌として右端の必要牌と不要牌を入れ替えたりするのに使ったりします。
序盤で浮き牌の優劣が変化した時や、イーシャンテンで溢れる可能性の高い牌を右端に寄せておいてテンパイの牌と小手返ししてリーチ、みたいな感じです。
そうやって何気なくしている小手返しですが、果たして問題にはならないのでしょうか?
ということで、今回は手出しとツモ切りのモーションをテーマに考えてみます。

そもそも小手返しとは、手出しツモ切りをわからなくさせる動作というのが元来の目的です。
ですが最近では、ただの牌弄りや、前述の僕のケースのように理牌として活用するというように、対局者へのアクションというより、自己完結する牌捌きとして利用される側面が多いように感じます。
ただの牌捌きのテクニックとしてなら小手返しはいくらしようと問題はないのですが、物議を醸し出しかねないのは、小手返しが本来手出しツモ切りを誤魔化す為のものであるという背景です。
ということで先に身も蓋もないことを言ってしまうと、
『イカサマを彷彿とさせるグレーな背景があり、ゲーム上不要な動作である小手返しはするべきではない』というところに落ち着いてしまうと思います。
するべきかしないべきかで言うと、それはするべきでないという結論に至らざるを得ないと思うのですが、
そう言ってしまっては考えがいがないのでもう少し掘り下げてみましょう。

①プロは小手返しをするのか
これについては少し触れておきたかっただけなので言いたいことだけ書きます。
プロ団体の公式対局では推奨されていない団体もあるようです。やはり余計な動作としての小手返しを嫌う考え方もそこにあるのでしょうか。
また、モンド名人戦などに出ているような昔いるようなプロは小手返しを披露しています。
逆に女流などでは推奨されていないようですし、最近の配信対局でも小手返しはほとんど見かけません。
これは『小手返しはしないが無難』という考え方が浸透し始めているのではないかと感じました。
ただ、ベテランのプロ達が小手返しをするのは見ていてかっこいいと思われる部分はあると思うので、視聴者から支持を得られるのではないでしょうか。
牌捌きとしての小手返しがニーズに応じて最適化されていってるのかなと、プロの小手返しについては感じました。

小手返しで手出しツモ切りは誤魔化せるのか
ここからが本題です。
手出しかツモ切りを観察する上で、果たして小手返しをされたからといってそれがわからなくなるようなことはあるでしょうか?
もちろん、何回も小手返しをしたり、2枚以上飛ばしなどの高度な小手返しを複数回されたり、疲労が溜まっていて右端から切ったように見えたけど今小手返ししたっけ?となったり、というようなケースではわからなくなるかもしれませんが、
前者のような小手返しをしまくるのはさすがに小手返しの是非以前のマナー違反として咎められるでしょうし、後者のような状態では手出しかツモ切りかという情報をまともに活かせる状態ではないので例外とします。
そのような例外の状況を除けば、一回や二回の小手返しでは手出しツモ切りを判別する妨げにはならないと思います。
劇画の世界のような音も鳴らず、目にも止まらない牌捌きは現実的ではありません。
以上のことから、小手返しに手出しツモ切りをわからなくさせる効力は無いと考えます。
それでも、手出しツモ切りを誤魔化す意図で小手返しを使ったしたらそれはどうでしょう?

③手出しツモ切りを誤魔化す小手返しはイカサマか?
そもそも手出しツモ切りをわからなくさせることは、どの程度悪質なのでしょうか。
まず材料を挙げてみます。
・原則として捨て牌前にツモってきた牌を手牌の中に入れることはマナー違反である
・ネット麻雀において手出しツモ切りはシステムとして判別可能である
・牌捌きはゲーム進行とは無関係な動作である
このような判断材料を挙げるだけで僕の言いたいことは伝わった気はしますが、それぞれ少し噛み砕きます。
まず一つ目ですが、手出しツモ切りを誤魔化すために小手返しをするということは、ツモった牌を手の中に入れてる状態になります。まあ、良くないですよね。
次に二つ目、ネット麻雀にはチョンボがありません。それはそもそもチョンボというのはゲーム上あり得ないことだからシステムとして組み込まれていません。そのネット麻雀で手出しツモ切りの判別の可否がシステムとして組み込まれているということは、麻雀において手出しツモ切りが判別できないことはあり得ないことと考えることができます。ネット麻雀は麻雀として後発的なものですが、システムを組み立てる上で排除された要素、残された要素は吟味されているはずです。なのでネット麻雀で実現されていることは客観的に麻雀の原則が精査された結果と考えてよいのではないでしょうか。
そして三つ目、牌捌きのテクニックなんて一切なくても麻雀はできます。なので、牌捌きはゲームの進行とは無関係、卓外の要素なのです。磨き上げた卓外の要素を使ってゲーム上の判断材料が阻害されることはあってはならないことと思います。

以上のことから小手返しは、マナー的ルール的に無いべきもの、あり得ないものであり、
分類するならばそれはイカサマと言えるのではないでしょうか。
僕は論理的には小手返しはイカサマという評価が妥当と考えました。
よって長くなりましたが、手出しツモ切りを誤魔化す意図で小手返しをするということは、イカサマをしているに等しいと僕は考えます。
なのでそのような意図での小手返しは悪ではないでしょうか。

④牌捌きとしての小手返しはアリか?
牌捌き自体は卓外の要素と書きましたが、牌を扱う以上、通常の牌捌きならしてはならないことではないと思います。
小手返しでも自分の切り番でないのなら、それこそただの理牌にしかならないので問題には至らないのではないでしょうか。
僕がよくする小手返しリーチは、手出しツモ切りを誤魔化す意図を同卓者に感じさせるかもしれませんし、切る前にツモ牌を手に入れているという意味でダメですね。
切り番でない場合であっても、あまり小手返しをやり過ぎてカチャカチャする音が周りに不愉快に感じられるようでしたら、それはもちろんダメだと思います。

というように、小手返しが推奨されない理由を掘り下げてみました。
とはいえ、牌に触って牌を扱うことも麻雀の醍醐味の一つだとは思います。
何か公の場での麻雀であったり、同卓者に特に小手返しを嫌がる人がいたりというような場合でなければ、
多少の小手返しはご愛嬌ではないでしょうか?
自分の小手返しを擁護するわけではありませんが、そういった側面も現実としてある気はします。
実際僕は何度か親しい人に冗談っぽく小手返しリーチを指摘されて以来、小手返しはしないように心掛けてはいます。

ということで小手返しについては以上です。
手出しツモ切りについてはもう少し書こうと思うのですが、思った以上に長くなってしまったので、それは次回に持ち越します。
小手返しについてご意見ありましたら、お願いします。

オーラスのアガリ(目無しの麻雀)

オーラスで着順を上げることが不可能になった、あるいは困難な条件となった時、皆さんはどうしていますか?

これはルール(麻雀をする場)にもよると思います。

・フリー麻雀

・ネット麻雀

・セット麻雀

・完全順位制

・大会、リーグ戦

・大会、リーグ戦(公開対局)

・スタッフの麻雀

大きく使い分けがあり得るとすればこんなところでしょうか。

それぞれに対して取り得るアクションは

①点数状況を無視してフラットに一局に臨む

②点数状況を無視してフラットに一局に臨むが鳴かせたり放銃したり他家の順位を変えるアガリをしたりは避け気味に打つ

③点数状況を無視してボーナス(祝儀・焼鳥の回避など)の獲得を目指して一局に臨む

④極力高得点の手組みで押し切る

⑤極力高得点の手組みをするが鳴かせたり放銃したりは避ける

⑥極力高得点の手組みをするが鳴かせたり放銃したり他家の順位を変えるアガリをしたりは避ける

⑦ダントツの者に不利に打つ

⑧手牌の選択権を放棄する

他にもいろいろあるかもしれませんが、よく取られるアクションと、議論されたところを個人的に見たことのある選択は以上です。

それぞれのパターンについて順番に考察していきます。

 

⒈フリー麻雀・ネット麻雀・セット麻雀

これらの麻雀では、順位以外にも祝儀や焼鳥・飛びへのペナルティなどの成績に影響するものが設定されている場合が多く、素点だけでもポイントの増減があります。

それと同時に決勝戦や最終節といった終わりがありません。

なので、オーラスにどのような麻雀をしたとしても容認され得る理由があり、それは個人の自由です。

ただし、だからこそ、自身の麻雀観を押しつけることだけは、悪いことと言えるのではないでしょうか。

アガラスをした人に、「なんでそんな手アガったの?」と言ったり、オーラス局途中にかなり厳しいラス目の人に条件の話をしたり、

オーラスおとなしくしていた人に、「普通に打ってよ」と言ったり、「ラス目が牌を絞ったら下家の俺が不利になるじゃないか」と言ったりしてはいけないと思います。

また、成績を改善する方法があるにも関わらず、それを放棄する形で中立を保とうとする⑦・⑧は、このような麻雀の場では不愉快な印象を与えるかもしれません。

成績の改善が不可能な以下のケースでは⑦・⑧のような麻雀も正解になり得ると思います。

 

⒉完全順位制・大会・リーグ戦

これらは個人的にあまり経験がないので、体感的にどうなるのかはよくわからないのですが考えてみます。

完全順位制と大会・リーグ戦では、後者には決勝戦・最終節といった終わりがあり、前者にはそれがありません。

あくまで完全な最終ゲームのオーラスという前提で考えたいと思いますが、順位と素点以外に成績を左右するものが存在せず、素点を稼ぐことに意味がない状況という意味で、オーラス時点での本質は同じだと考えます。

ただ、終わりがある大会・リーグ戦の方が重みが大きいとは思いますので、目無しの人がゲームの結果を決定させる積極的なアクションは心理的に取りにくいと思います。

とはいえ、それでも、だからこそ、①〜⑧(③は無関係)どの選択を取ることも自由ではないでしょうか。

 

積極的なアクションを避ける②・⑤・⑥は中立な姿勢を体現しているという点で一つの正解だと思います。

 

一見利己的な①・④も、その結果アガろうとも、誰に何を鳴かれようとも、放銃することになろうとも、その過程で自分のスコアの為に牌を絞っても、降りたとしても、全うにゲームに参加してその局に起こるはずだったことをそのまま起こすという点で中立性があり、一つの正解だと思います。

 

⑦についてはピンと来ない方もいらっしゃると思いますが、これはある漫画のキャラクターの意見です。

片山まさゆきさんのノーマーク爆牌党5巻より

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この劇中ではオーラスに限った話ではないのですが、目無しの時にどのような麻雀をするかという考え方の点ではこういう意見もあり得るかと思います。共感できる人が多いかはわかりませんが、一理あるのではないでしょうか。

 

⑧は昨今で通りの良い言葉で言えば『オールツモ切り』ですね。過激な選択なので賛否両論あるようですが、打ち手の意思を介在させないというのは、限りなく平等で、これはこれで中立な姿勢の体現だと個人的には思います。

 

細かく考えてみましたが、結局視点を変えればどのような麻雀も正解になるので、どのような麻雀であっても容認され得る理由があり、それは個人の自由だと思います。

ただ、『同卓者の心象』という点で考えると、鳴かせない・放銃しないように打つことが、『同卓者の心象』を損なわないようにする選択かもしれません。

ゲームとしてこうあるべきという信念の下、①・④・⑧のような選択をしているのなら、それは『同卓者の心象』などとは関係なく悪いことだとは個人的には思いませんが、

人間はそんな仕方ないことであっても、不快感を感じてしまうということは事実なので、何が正解はともかく、その事実は気に留めておくべきかもしれません。

因みに個人的には、フリー麻雀・セット麻雀・ネット麻雀・完全順位制・大会・リーグ戦、どのオーラスであっても、①が良いと思ってます。

僕も常にそうしているわけではないですけどね(笑)

 

⒊大会、リーグ戦(公開対局)・スタッフの麻雀

基本的にはここまで書いてきた通りだと考えます。

どんな麻雀でも、ちゃんと理由があれば問題ないと思います。

ただ、公開対局・スタッフの麻雀が他と大きく違うのは、それがビジネスだということです。

公開対局の場合、僕の本音としては

たとえそれがビジネスで誰が何人観ていようが、麻雀をしているところを公開しているのだから、各々の麻雀観に従った麻雀を全うするべきだと、心から、本当に、強く、そう思います。

それでも、そこにビジネスとしての側面があるのならビジネスもまた、全うしなければならないのかなと思いました。

もちろん、そこに賃金が発生しているのかということや、麻雀をするというビジネスなら、その人の麻雀をやりきってこそはじめてビジネスとして成立するといった考えもあると思います。

その辺りは僕も意見が固まっていません。

対局に出るだけでは賃金が発生しないケースが少なくないことや、ニーズの細分化・棲み分けが出来ていないことといった麻雀業界の未熟さもその一端となっていると思います。

個人の麻雀観だけでは片付けられない複雑な問題を公開対局のケースでは孕んでいる、そんな微妙な案件だと思います。

これ以上の言及は倫理の幅が麻雀だけではきかなくなってしまい、僕が考えられる範疇を越えてしまうのでできませんが、非常に難しい問題なのではないでしょうか。

 

スタッフの麻雀はビジネスという側面を持ち出す時に取って付けたように出してみました。

雀荘店員の麻雀では、接客として『同卓者の心象』に最大限気を遣わないといかず、麻雀としてどうあるべきか、という今までの観点と変わってくるので複雑です。

卓構成の状況・お客さんの情報・自身の成績・手牌・場況などと考えるべき要素の組み合わせは本当に無限にあり、言及はできないので公開対局と列挙するに留めます。

 

 

ということで、今回はオーラスのアガリについて考えてみました。

こんな場があるよ、こんな選択もあるよ、それは間違っていると思うよ、

そういった意見があればお待ちしています。

ウソ理牌

前置きを書いてから個人的にいろいろあり、テーマになりそうなことをメモだけしつつ過ごしていたら随分間が空いてしまいました。

問題提起の形を取ると書いていましたが、メモしたテーマを眺めていると『同卓者の心象』という基準にフォーカスすれば、ある程度の正解・不正解は出せる気がしてきました。

その辺りは僕が思ったことを書いていこう思います。

 

扱いたいと思うテーマはいろいろあるのですが、

まず今回考えてみたいことは『ウソ理牌』です。

 

わざとおかしな理牌をすることで、同卓者の読みを惑わせるという行為は果たして倫理的にどうなのでしょう?

たとえば、

 五五六 ②③④ ⑥⑦⑧ 23 88

のようなイーシャンテン

4をツモって五切りリーチをしました。

その後、すぐに4を以下のように手牌に入れました。

五4六 ②③④ ⑥⑦⑧ 23 88

入り目を欺くためにわざと無関係な場所に4を置きました。

これは駆け引き・テクニック?

それとも三味線でしょうか?

 

順番に観点を整理しましょう。

⒈ルール

 まず、正確に理牌をしなければならないというルールもマナーも通常ありません。

もちろん、手牌を倒した時には理牌されていなければそれはマナー違反でしょうし、

アガリの発声をしてから完全にバラバラの手牌を理牌し始めるのは、同卓者には不必要な間で余計な時間を取らせることになるので良くはないでしょう。

ですが、面子構成や待ちの形が問題なく確認できる程度に理牌されていれば、正確である必要はないと思いますし、

アガリの発声のあとに、イーシャンテンくらいから理牌せずに端に置いていた牌を手牌に入れたり、待ちを変える鳴きに備えて牌の並びを変えていたものを戻したりする程度なら、不必要というほどの間は裂かずに済むので問題はないと思います。

なので、正しい理牌がされていないことは問題ないと考えます。

 

2.同卓者の心象

 これは手出し位置の情報をキャッチしている場合とそうでない場合の2パターンがありますが、重要なのはキャッチしている場合なのでそのパターンで検証します。

まずリーチ者の牌の動きを見た時に推測できることは

『入り目が萬子だった』ということだけです。

これだけでははっきり言って確かなことは何もわかりません。

ただ、入り目が萬子で最終手出しが萬子となると、純粋な引っ付きテンパイの可能性が否定されるのと、

単純な萬子塔子の完成というパターンは少なくないので、

萬子は押しやすくはなるでしょう。

それでも、空切り・愚形の両面変化・五五七七八などの二度受け・単騎系多面張

といった萬子待ちの可能性自体は全く否定されないので、

同卓者が「萬子が埋まってテンパイ…ということは待ちは別の色か」と思うことはまずないと思われます。

とは言え、萬子待ちのパターンの代表格は潰されているので、萬子が押しやすくなってることには変わらず、理牌の情報を頼りに萬子を勝負する可能性は十分にあり得ます。

問題はそれで放銃した後です。(流局で手を開けた後も基本的に同じ)

リーチ者は手牌を開ける前に理牌をし直して、手牌を開けます。

その瞬間、放銃にしろ流局にしろ、萬子が入ってテンパイと思っていた同卓者は「騙された!」と思うでしょう。

その時の「騙された!」という印象は

・悪質なマナー違反だ

・相手の読みを逆手に取る巧みなトラップだ

のどちらでしょうか?

これは非常に微妙なところだと思います。

その場にいる人たちの間柄にも寄るでしょうし、

そのリーチ者の普段の言動・麻雀への姿勢でも変わるかもしれません。

しかし結局それを大きく左右するのは、それを受けた人の感性になると思います。

これを言ってしまうと身も蓋もなくなるのですが、これは現実です。

それでも、どうしようもなかったこと・不可抗力で同卓者を惑わせてしまったことに対して

「三味線だ!」というようでは、それは言いがかりです。

そこに同卓者に説明できる理由があれば、客観的な評価をそこに求めることができます。

同卓者に説明できる理由という点について、今回のケースはどうでしょう?

 

⒊リーチ者の意図

 嘘の理牌をしたこのリーチ者は、何の為に嘘の理牌をしたのか。

それは嘘の情報を与えて、相手を欺く為でした。

終局後、そのような意図を説明されて、納得しない人というのは、それが少数派か多数派かはわかりませんが、必ずいると思います。

納得はできても感心はしないという人は必ずいる、と言う方が良いでしょうか。

「えっ、それってどうなの?」って思われてしまう案件だとは思うんですよね。

どうしてルール上問題のない行為で同卓者のゲーム上のミスリードを誘っただけの行為が、そう捉えられてしまうのでしょうか?

ここからはかなり個人的な感性が入りますが、

『嘘の情報』を『与えて』『欺く』ということが悪意を感じさせるからだと思います。

『欺く』という表現は僕がそれを使っているだけなのでフェアではないかもしれませんが、

現象的には同じだとしても、

『嘘』から始まっている以上、『ミスリードを誘った』と言うよりは、『欺く』と言うべきで、この二つはやはり違うと思うのです。

麻雀では情報を『隠す』ことの方が多いです。

②④⑤⑥⑦をチーした後の形がバレることに備えて

⑥⑦④⑤②といった並びにしたり、

テンパイの入り目を終局まで端に置いたままにしたりといったようにです。

また、あえて情報を与える場合でも、それは『嘘』の情報ではなく、あくまで『事実』であることがほとんどです。

意図的にノーチャンスを作る為に大ミンカンをしたり他に使い道のある4枚目の牌を河に切ったり、

役牌暗刻のタンヤオ仕掛けをしている時に中張牌が待ちになった時、あえて么九牌を空切りしてみせたり、

リーチに現物の牌だけを切ってテンパイを維持しつつ降りてるように見せかけたり、

他家を降ろす為にノーテンでもリーチの無筋をツモ切りしたり、

というようなこれらの動作に『嘘』はありません。

このような『事実』の情報で同卓者を撹乱した時には『ミスリードを誘った』という表現が当てはまると思います。

・ゲーム上の動作である『事実』を使ったか

・ルールを利用した『嘘』を使ったか

リーチ者の意図の明暗を分けるのはここにあり、

そして今回のケースではリーチ者は『嘘』を使ったのです。

 

不誠実な印象のある『嘘』をゲーム上の動作に織り交ぜることで、同卓者に不愉快な思いをさせたり、不愉快とまでは言わずとも違和感を抱かせることはあると思います。

同卓者にそのような印象が与える可能性があることと、不誠実な『嘘』の動作を含んでいる『ウソ理牌』は倫理的に悪であると言っていいのではないでしょうか。

 

まあ、悪であるかどうかはともかくとして、

結論としては

ウソ理牌はしない方がいい

…ですよね。

 

もちろん、仲間内でそういうのも込みで楽しむ麻雀もあるでしょうし、

いろんな意味でそもそもそんなウソの理牌なんてする意味のないことも多いと思います。

基本的にはウソの理牌を思いつくことも、それが有効になる状況も、それが通用する場であることも考えればかなりのレアケースです。

ただ、倫理的にウソの理牌をするのってどうなのかなと思いついたので考えてみました。

正直書き始めた時と書き終えた後では、考え方も変わりました。

考えてみたら、漠然としていたことも視えてきたりもしますね。

もちろん、僕の考えたことが全てではないと思います。

誰かの違う意見を聞けば、そっちの方が正しいと僕も思い直すかもしれません。

もし何か意見がありましたらコメントしていただければ、意見交換したいと思います。

 

次は今(2017年4月)少し麻雀業界で話題になってることに関わる件で、

『オーラスのアガリ』について考えてみます。

 

同卓者の心象

前置きの記事で『同卓者の心象』という言葉を使ってきました。

このブログで記事を書いていく上で重要なキーワードになると思うので、この言葉について書いておきます。

フリー麻雀にある程度以上馴染みのある方は直感的に理解できると思いますが、

読んで字のまま、あるプレイヤーの言動を同卓者がどう感じ取るかということですね。

 

例えば悪質な行為である三味線。

ゲーム中にゲームに関わる嘘や紛らわしい言動で周りに誤解を与えることを三味線と言いますが、

本人に誤解を与えるという意図(悪意)がなかったとしても、同卓者が誤解をしてしまえばアウトです。

あるプレイヤーが「しまったぁ」と言って牌を切りました。同卓者は何か失敗をし、あがりが遠ざかっていると感じ取るのは自然なことです。

ですがその巡目にそのプレイヤーがロンしました。同卓者は全員驚いていますが、本人曰く「前巡に切った牌を置いておけば三色がついていた」と主張しています。

けれどそんな事情は手を開けるまでは同卓者にはわかりません。

このようなケースも三味線に分類され、倫理的にはアウトだと思います。

 

例えば 発声 。

あるプレイヤーがロンをしたけど、同卓者はロンの発声が聞こえずそのままゲームを進行してしまった。

ロンをしたプレイヤーは「ロンと言った」と主張するかもしれませんが、同卓者に聞こえていなければ発声していないのと同じです。

これは心象と言えば語弊がありますが、同卓者を基準としてゲームを進行するべきという観点から見れば、ロンをしたプレイヤーの主張が通ることはないでしょう。

 

また、

リーチを受けている人が牌山から牌をツモり、「アカンアカン!………リーチ!」と言ってリーチしました。

僕が働いていた店では厳重注意でした。(局の結果によって注意の仕方や、注意するかしないかは判断してましたが)

その発言をした人の主観では、先のリーチの危険牌が溢れるテンパイをしたから「アカンアカン」なのですが、同卓者からすれば「いやテンパイして勝負するんでしょ?何がアカンの?」と受け取られることは普通です。

『ゲーム上誰もが過程として目指すテンパイに対して否定する言葉を用い矛盾を作ることで、同卓者を不快にさせる可能性がある』

ということでマナ悪行為としていました。

これも同卓者を基準として、同卓者の心象から考えれば倫理的にアウトと言っていいと思います。

僕が働いてた店にあったマナーに関わるおもしろいルールとして『テンパイ宣言』というものがあったのですが、それはまた別の機会に記事を設けて書きたいと思います。

 

挙げ始めればキリはありませんが、本人の意図と同卓者の印象が食い違うことは多々あります。このようなケースは同卓者の印象の方が、モラル上の正しさだと思います。

なので、この記事では「倫理的にアウトだと思います」という表現をしましたが、同卓者の印象と異なるプレイヤーの言動は、基本的にアウトと結論づけていきます。

自己紹介とスタンス

簡単に自己紹介をしておきます。

りょーちん といいます。

麻雀歴は2017年現在で10年強です。

でも麻雀のセンスはあまりありません。

3年半くらい個人の麻雀店で勤務した経験があります。

かなりいわゆるマナーに厳しいお店で、三味線になりそうなことなどは徹底的になくなるようお客さんにも協力をお願いしていました。

その経験によるのか、麻雀のマナーやモラルについては敏感になりました。

こういうことはよくない、これってどうしてダメなのか、

そんなことを考えている内に何が良くて何が悪いのかよくわからなくなりました。

このブログは、その混乱を整理するためと、いろんな意見を募り トラブルのない麻雀の指標がうまくいけばできれば良いなと思って作りました。

 

とはいえ、基本的には自己満足です。

これからいろんなテーマについて書いていこうと思いますが、そのスタンスだけ示しておきます。

⒈基本的にはテーマに対して答えを突きつけるのではなく、そのテーマのいろんな側面を挙げた上での問題提起が趣旨

⒉麻雀のルールと照らし合わせて、ルールと矛盾する問題については、その問題は誤りとして結論づける

⒊同卓者の心象を重要視して考える

はじめに

閲覧ありがとうございます。

このブログは、麻雀のゲーム上のモラルについて考えていくブログです。

麻雀はゲームの進行だけでも複雑でアナログです。

牌を取る場所を間違えてしまったり、発声のタイミングが微妙になってしまったりと、トラブルが付いて回ります。

もしそういったトラブルが起こったら、その場を監督する人に判断してもらわなければなりません。

ルールやゲームの進行に関することでしたら、監督者が判断してくれるでしょう。

しかし、論理的に判断しきれないグレーなことも麻雀では多々起こります。

それはプレイヤーのモラル(道徳・倫理観)に委ねられていることです。

例えば、牌山に積まれた牌を自分以外のある人がこぼしてしまいました。仮に五萬だったとしましょう。この時点でそこに五萬があることは共通の認識となります。その状況の中、以下の内モラルに反すると思うものはいくつありますか?

 

①その五萬が自分のツモ筋でなかった(ツモ筋かどうか特に確認せず)ので、五萬が一枚少ないことを塔子選択の参考にした

②その五萬が自分のツモ筋であることを確認し、場に安い色の両面を払い、嵌五萬を残した

③ソウズの混一をやっていると思っていた人にその五萬が入り手出しだったので、打ち切れなかったソウズを切った

④その五萬をツモる一巡前に待ち選択の無い二-五-八萬待ちでテンパイし即リーを打った

⑤その五萬をツモる数巡前にテンパイし、6面張と五萬単騎の選択で五萬単騎を選んでダマにし、その五萬をツモる一巡前にツモ切りリーチをした

 

人それぞれでモラルに反することに該当するものと数は違うと思います。

僕は②と⑤はダメだと感じる者です。

周りにバレるとかバレないの問題ではなく、露骨に自然ではない選択をしたから、というのがその理由です。

ですが、ここが微妙なところで、③だって本来切らないハズの牌を切っているという点では、自然ではない選択をしています。それを良しとする理由としては、そこに五萬があることを記憶し、その五萬の行方を観察した結果の判断なので、それも"雀力"の内であるという感覚です。

しかしそう言うなら、②と⑤だって雀力によって可能としたこととなるので、真っ当な選択とも言えます。

ただ、モラルという以上、論理的な妥当性だけでなく、「同卓者の心象」も考える上では無視できません………

 

………というように、対人ゲームである麻雀には、非常に微妙な要素が多数存在します。

上記のテーマは分類すれば『見せ牌』になりますが、これはまた見せ牌について記事として書く時に、別の状況や牌山以外の見せ牌のパターンも合わせて書きます。上の例であっても、牌をこぼしたのが自分だったとしたら、また話は変わってくるでしょう。

このような感じで、このブログでは麻雀で発生しうる道徳的なグレーゾーンを、論理的に倫理的な観点で考察していきます。